絵画会前夜

大学時代のクラブのOB会に中心メンバーが現れ、過去の名簿、大学時代の作品などをアーカイブするという。このような活動は一般的に面倒なので、誰かが犠牲的精神を発揮してやらねば決して始まらない。後輩でそのような立派な方が出てきたのはうれしい限りだ。OBのHPを創ることを目標に掲げている。そのための寄稿文をいくつか書くことにする。

私が大学に入学したのは1973年。まだ学生運動が激しく、学内には革マル派、中核派、民青などの学生が活発に活動していた。構内には立て看板が乱立し、時にはグループ同士が鉄パイプで争うような時代だった。試験らしい試験は4年間で一度あるかないかで、ほとんどはレポート提出で済まされていた。そんな中、勉強はそっちのけで、私はサークル活動に明け暮れていた。

絵画会ができる前、早稲田大学にあった公認の美術系サークルは「美術研究会(美研)」のみだった。私は高校時代に絵を描いていたこともあり、大学でも続けたいとその門をたたいた。美研には、私と同じように高校で絵を描いていた仲間が何人も入っていたと思う。

私は福岡県のある進学校を卒業していた(ちなみにタモリさんが先輩だった)。本当は美術系の大学に進みたかったが、親の言いつけに従って早稲田に入学した。高校の美術部は施設が充実しており、広い部室には有名な石膏像がほぼ揃っていて、デッサンには事欠かなかった。そんな経験があったので、大学の美研にも同じような環境を期待していた。

ところが、美研の部室は、当時革マル派の拠点だった第一学生会館の屋上にある、バラックのような小屋だった。石膏像は数体しかなく、3人並んで描けばもう席は埋まってしまう。それでも仕方なく、毎日そこでデッサンを続けていた。

当時、私たちを指導してくれていたのは、2年生のFさん。芸大にも入れるのではと思わせるほどのデッサン力の持ち主だった。せっかく描いた私のデッサンに、Fさんは容赦なく手を入れて修正してしまうので、最初は面食らったものだ。それでも、「馬越君、影はつながっているんだよ」と言われた言葉は、妙に心に残っている。

なぜ美研からB先輩を中心とするメンバーが離れていったのか、その詳しい事情はわからない。私はまだ1年生で、内部の事情までは知らされなかったからだ。ただ、分裂に際しては多くの議論がなされ、美研に残る者と、新たに「絵画会」を結成する者とに分かれていった。痛みを伴う再出発だったに違いない。分裂の経緯の詳細は、B先輩や初代幹事長のNさんだけが知っているのではないだろうか。

絵画会の会則は、美術に取り組む者の心得のようなものが厳格に定められており、少し堅苦しい印象だった。もっと自由に、楽しく、好きなように描きたかった仲間たちは、絵画会に入っても、やがて去っていった。同期の友人が何人も辞めていったのは、やはり悲しかった。

画像は絵画会のアトリエ*とは言っても不法占拠した踊り場のような場所。ここの存在はすっかり忘れていた。

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生命感あふれる油彩画の制作をめざしています。

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