あの頃のこと➀

ブログであまり昔話をするのはどうかと思うが、絵画というひとつの軸を辿って書いてみたい。何回か連載になるかもしれない。

絵を描き始めたのは高校2年生になるころだったと思う。中学は福岡市のM中学という公立中学。甲斐バンドの甲斐よしひろが通った学校で、彼とは同級生だった。当時は福岡中の番長が集ってくるようなかなり悪名高い学校だった。今はそんなことはないと思うが・・・。

転校生として同じ福岡県の南部の中学から転校してきた私は生意気な答え方が番長グループの気に障ったらしくいじめを受けた。しかし、小さいながら運動能力は比較的高かったので軟式テニス部に入部。父の影響もあったかもしれないが、真面目に練習を続け、団体戦では県大会にも出るようになった。

進学した高校(筑紫丘高校)でもテニスを続けるかどうか随分悩んだが、「あがり症」の自分の性格を見限ってやめることにした。かといって何もしないのもどうかと思い、ついふらふらと美術部の門を叩いたのが絵を始めるきっかけだった。

最初の1年間は石膏デッサンばかり。毎日、暗くなる時間まで、石膏像とにらめっこし、手を木炭で真っ黒にして描いていた。美大に行くには基礎としての石膏デッサンが必須なので描き続けたが、父親から「絵を描いていても食えないよ」の一言であっさりと美大進学をあきらめてしまった。まあ、今考えてみるとそれが現実だっただろう。

デッサンがめっぽう上手な芸大をめざしていた先輩がいたが、石膏デッサンで通っても油彩で落とされていたようだ。そう簡単ではない。同じ美術部でいつも一緒にイーゼルを並べて描いていた友人に上山敏彦君がいた。当時から漫画がめっぽううまかったが、その後、料理漫画で有名な上山とちとしてデビューしていたのには驚いた。タモリと共に高校が生んだ有名人になっている。

石膏デッサンは残っていないので石膏像を描いた油彩画
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生命感あふれる油彩画の制作をめざしています。

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